伊豆山神社

関八州総鎮護 伊豆山神社

天下獲りの神様で名をはせた伊豆山(いずさん)神社は、広大な社領を持ち、全国約200箇所に点在する伊豆山神社・伊豆神社・走湯神社の事実上の総本社です。

バスを降りるとすぐ目の前に神社へ続く長い参道が始まります。神社へは男坂と呼ばれる階段を登る参道と左手に女坂と呼ばれる坂道の参道があります。本来の参道は海岸沿いにある「走り湯」から続き837段の階段を登ります。

長い参道を登り切ると緑に囲まれた本殿が現れます。四季折々の自然の中に佇む伊豆山神社一円は写真俳句の素材に事欠かない熱海一押しの吟行スポットです。

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g_01_01鎌倉時代での「走湯山秘訣」によれば、伊豆山神社の男神と女神が赤龍と白龍に変身し、熱海の温泉を沸かし続けていると伝えられており、強運の”赤白二龍”は伊豆山神社の象徴となっています。

また、源頼朝と北条政子との劇的な恋愛劇の場、源氏再興を祈願し、鎌倉幕府を開府させて場でもあります。

その後、頼朝を崇拝していた徳川家康は天下獲りを伊豆山神社で祈願し徳川幕府を開府しました。「天下を獲れたのは、伊豆大権現様(伊豆山神社)のおかげ」と言ったと伝えられています。

 

頼朝・政子

g_01_02源頼朝と北条政子のエピソードが伊豆山神社には数々残されています。

永暦元年(1160)平治の乱に破れ、今の韮山に流された頼朝は14歳から34歳まで伊豆ですごしました。一方頼朝の監視役であった時政の娘政子は頼朝と恋に落ちここ伊豆山神社でしのび逢いました。

「腰掛け石」に座り31歳の頼朝、21歳の政子は語り明かします。政子は政略結婚で結婚の相手を決められた婚礼の日、その席から抜け出し、大雨の中を伊豆山神社にいる頼朝のもとへひたすら走り劇的な再会を果たしたのでした。

g_01_03その出会った場所が今残る「逢初橋」(石の太鼓橋)です。伊豆山権現の保護により一緒になった二人は、翌年に長女大姫が誕生し、政子の父も二人を認め姫の病気平癒を願い延命地蔵尊を祭る「逢初め地蔵堂」が造られました。

頼朝が石橋山合戦をしている間、残された政子たちは走湯山からより安全な「秋戸郷」に身をひそめていました。そして、大勝して戻った頼朝と共に鎌倉に向かいました。

また、政子は頼朝一周忌に、自らの髪の毛を除髪しこれを刺繍した「頭髪梵字曼荼羅」を奉納しました。(吾妻鏡・複製が郷土資料館に展示されています)

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雌雄の椰の木(ご神木)

神社境内に梛(なぎ)の木が一対植えられていて、その葉は縁結びのご利益があるといわれています。

g_01_08梛の木は古代より神社の境内に植えられており、伊豆山神社には今を去る1,400余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる、役の行者(小角)は、「神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず」と詠っています。

北条政子が若き日に、伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれことで、良縁が結ばれる「縁結びの神木」とされています。

伊豆山神社では、御神木の葉で、男子は「め梛の葉」を女子は「お梛の葉」を所持し、愛の証として身につける御守りが売られています。

知っておきたい言葉~権現(大権現)

伊豆山神社は、伊豆大権現(伊豆山権現)、走湯大権現の別名があります。奈良時代からの「神仏習合」(神仏混淆しんぶつこんこう)つまり、古代の王権が、天皇の神話と、仏教思想がいりまじり、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神宮寺が広がり江戸次回まで続きました。

権現は、仏が神の仮(権)の姿で現れるというものです。

明治元年「神仏分離」が思考神仏習合時代は終焉を迎えました。この時、神仏分離令後、「伊豆山神社」とよばれ、「般若院」(真言宗)とに分離しました。

創建は不詳で5世紀末と推定されています。隆盛したのは鎌倉時代、武家社会の清流と共に大きな勢力を維持し、修験道の神社ともなっています。

源頼朝が源氏の再興を祈願し、政子と結ばれた逸話から、縁結びの神社としたパワースポットとして知られ、例大祭は4月15日壮観な時代絵巻が再現されています。

アクセス

住所/熱海市伊豆山上野地708-1

電話/0557-80-3164

交通/熱海駅より「七尾団地」方面行きバスにて約10分→「伊豆山神社前」下車

駐車場/あり

伊豆山神社ホームページ