写真俳句の愉しみ 夏

 春が更け、花がその位置を譲った萌葱(もえぎ)色の新緑も濃厚となると、輝く夏に備えて梅雨がたっぷりと水分を補給する。日本列島ほどメリハリのきいた四季の節目のある国はない。いずれの国も冬か夏に偏っており、あるいは冬と夏が逆転している。北海道から沖縄まで、四季の恩恵をバランスよく配合し、避暑、避寒も国内でできる。

 だが、春から夏にかけては、他の季節の節目に比べて段階的に移る。つまり、春と夏の間に晩春と初夏を含めて境界がやや曖昧(あいまい)である。蒸し暑い風土の日本は、伝統的に居住環境を夏に合わせて設計した。夏の暑さは耐え難いので、夏涼しく、冬の寒さは辛抱しようという構造である。冷暖房の発達によって今日の家の構造は全季節型であるが、古来の伝統は生きている。

DH000008 日本の夏はダイナミックである。超真夏日が連日つづいた後、南方洋上から台風がやってくる。全国各地で夏祭り、盆踊り、花火大会と夏を彩る行事が枚挙に暇がない。晩春からしどけなくなった季節は、梅雨に洗われた後、全国、宴会のように盛り上がる。まさに日本の夏は宴である。それも激しく、美しく、多彩である。だが、同時に脆(もろ)い。

 八月、フライパンの底で焙られるような暑熱におもわず恨みの目を向けると、暑熱に白濁していた空がいつの間にか青みを帯び、高くなっているのに気がつく。春のように一斉に開花するのではなく、じわじわと透明な秋に向かって衰えている。

 人生を通してのあらゆる想い出の中で、夏の想い出が一際(ひときわ)色濃いのは、その激しく脆い体質にあるのではあるまいか。空を独占したような積乱雲が崩れ落ちていくように、夏も自らの暑熱の中に燃え尽き、崩壊していくようである。

 この季節に死者の霊が三日間帰って来るという盆の行事は、祖先を敬う日本人ならではの美しい習わしである。各家ごとに、苧殻(おがら)を燃やして精霊を迎える迎え火を焚き、戸口には冥府から我が家に帰る目印の燈籠を釣るす。家の魂棚(たまだな)と称する棚を設け、瓜や茄子の馬、牛を飾り、花や菓子や団子を供える。町内の広場では夜を通して盆踊りの輪が広がる。昔ながらの盆の形式はだいぶ廃れてきてはいるが、盆踊りは盛んである。

 私は幼いころ、本当に父祖の霊が盆に帰って来ると信じていた。我が家にとってだれよりも大切な超VIPが三日間逗留して、また家族に送られて帰って行く。送り火を焚くときは子供心にもの悲しかった。街角に盆の迎え火と送り火の煙が薄くたなびき、とげとげしていた街も優しくなごむ。日ごろ、いやなやつとおもっている人間同士も、盆の間はにこやかに言葉を交わす。

 送り火を焚いたとき、幼かった私は、ご先祖さま、帰らないでと泣いて母を困らせたそうである。

 過去にさかのぼればさかのぼるほど追憶は霞むが、感傷が濃くなる。現在の生活になんの貢献も利害関係もないが、郷愁のように懐かしく吹きつけてくるものがある。各季節ごとに想い出はあっても、夏のように色濃く分けられていない。

6126 たとえば私の場合であるが、小説で季節を書くとき、夏が最も書きやすい。痩せていて、体質的に夏が合っているせいもあるのであろうが、どうもそれだけではないようである。生まれたのは冬であるが(一月二日)、物心ついたころ、最初の記憶が母と共に近くの川に、夏の朝、笹舟を流したことである。

 神経質な私はよくうなされた。見る悪夢はたいてい決まっていた。胸の上に乗っていた小石が次第に大きくなって、押しつぶされそうになったり、外へ出ようとすると庇(ひさし)が延びてきて、永久に青空の下に出られなかったり、ドアを開くとまたドアがあり、窓を開くとまた窓があって、永遠に外に出られない悪夢である。そんな夢を見たときは、たいてい俯(うつぶせ)せになっていたり、猫が胸の上に乗っていた。

 怖い夢を見てうなされた私は、朝になっても怯えていた。母はそんな私のために、七夕に飾った笹の葉で小舟をつくり、近所の川に流してくれた。流れに乗って朝靄のかなたに笹舟が消えていくのを見送りながら、母は、「これでおまえの悪い夢も、あの舟に乗って行ってしまったよ」と言った。

 夏は私にとって悲惨な記憶もある。昭和二十年(1945)八月十五日未明、私の郷里は日本で最後の空襲を受けた。敗戦の日、我が家の焼け跡に立って天皇の終戦の詔勅を聞いた。ポツダム宣言の受諾がもう少し早ければ、我が家と我が町は焼かれずにすんだのである。

 笹舟を流した近所の川の底が死屍累々(ししるいるい)として見えなかった記憶を、私は終生忘れない。

 私たち一家もいったんその川に逃げたが、父の一瞬の判断で、避難方向を変えた。父の判断が遅れていたら、私たちもその死者の列に加わるところであった。

 戦火の中を、安全な場所を探して逃げまどっているとき、顔だけは知っている近くの少女としばし行動を共にした。燃え上がる炎の反映に染まって、少女の横顔がこの世のものならぬように美しく見えた。翌朝、別れ別れになってしまったが、少女のその後を最近しきりにおもうようになった。健在であれば私と同年配である。会えば、おたがいに幻滅するかもしれないが、夏の想い出はいずれにしても劇的である。それは夏そのものがドラマであるからであろう。

P1030438 気力、体力充実しているときは、人はそのドラマに役者として積極的に参加している。日本の夏はその風土や環境や歴史から、特に劇的であるような気がする。夏の季語が多いのもそのせいであろう。

 戦後、私たち一家は離散して、母と弟妹たちは秩父の母の生家に寄留し、父と私は焼け跡に焼け棒杭(ぼくてい)で掘っ建て小屋(バラック)を建てて生活した。一家がふたたび合流するまで一年ほど待たなければならなかった。その意味で、私たち一家は戦火と戦後の混乱を共に潜(くぐ)り抜けた戦友でもあった。

 大学に進んだ私は、教室にはあまり出ず、山登りのクラブに参加して、山に登った。寒がりの私には冬山は無理で、もっぱら夏山が多かった。氷雪に鎧(よろ)われた拒絶的な山よりも、多彩な高山植物に化粧した夏山の方が性に合っていた。山には必ずカメラを携行し、これがただいまの写真俳句の下敷きとなった。

 当時の登山には、文芸や、詩歌や、絵や、写真や、音楽など、登山文化が伴っていた。井上靖の『氷壁』がベストセラーとなった時代であった。登山者はいずれもいっぱしの詩人であり、画家であり、写真家であり、筆が立った。

 私の中で戦争と山は夏の季語である。いずれも劇的であり、他の季節の想い出を断然圧している。

朝靄に悪夢を運ぶ笹の舟
魂を燃やす火のあり焦土かな
苧殻(おがら)焚く街角ごとの煙かな
盆踊り死者も加わりよもすがら
戦争の跡形もなき簾(すだれ)かな  角川春樹

森村誠一「写真俳句の愉しみ 四季の彩り」(スパイス刊)より

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